朝勤行は、はっきりとはわからないけれど40分前後だったように思う。(感覚なので全然違っていたらごめんなさい。)
勤行の後、お坊さんたちが板の間に出てこられて、八方に立ち並ぶ神社仏閣それぞれに向けて、参列者とともに手を合わせ再びお祈りをした。
和尚さんが
「ここ長谷寺は花の寺と言われるように、四季折々いろいろな景色を楽しませてくれます。
春は桜その後は牡丹や紫陽花が続き、秋は紅葉が美しく冬は葉が落ちて、
いつ訪れても初めて来たような気持ちになり、また新しい発見に出会えるでしょう。」
とお話しして下さった。
私は、お寺の和尚さんが「お祈り」と言う言葉を使われるのがとても新鮮だった。
長谷寺は広い敷地の中に、神社や五重塔、竜神様なども祀られており、あらゆる流派を超えた般若心境を唱えられているのかなと想像した。
なんだかそのことが神社仏閣のバリアフリーみたいで嬉しくなった。
流派はそれぞれのアイデンティティーだから、とても大事な道なのだと思う。
それはそれで尊重しながらも、その一番奥深くに共通の言語があることが大切なのだ。
1000年以上の時が経ち、枝は伸びどんどん広がっていけばいくほど、根源的な言語は普遍的でなければならない。
そして私のように、何の流派も持たず、ふと訪れた参拝者1がその根源的な言語に触れられることは、本当にありがたいことで、
それぞれの気ままなタイミングや気分であっても、分け隔てなく受け入れ、磨きあげたエネルギーを平等におすそ分けくださる。
しばらく余韻に浸っていると、隣に座っていたスタッフが「先生、地味に太鼓の音に乗って体が揺れてましたねー。 チラリと見て笑っちゃいそうになりました。」とにやけている。
「ほんとほんと!いつ立ち上がって一緒に手をたたき出そうかとうずうずしちゃったよ。(笑)」と私。
こんな気持ちの良い響きを毎朝間近で浴びているここに住む木々や鳥たちが全くうらやましい。
再び参列者が正面に向き直り、お坊さんたちが観音様の前に1列に並び、声を揃えて「おはようございます」とご挨拶されて朝の勤行は終了した。

その後私たちも本堂に入り観音様をお参りした。
観音様の大きな足を撫でながらお願い事をすると叶うのだそうだ。
特にお願い事が浮かばなかったので、「長い間たくさんの人に癒しや勇気や励ましや喜びや安らぎを与えてくださりありがとうございます。」とお伝えしてゆっくり足を撫でさせていただいた。
本堂を出ると、ずいぶんと日が高くなり、私たちの時空旅行など気にもかけずに、新たな1日はすでに始まっていた。
さぁ、私たちも朝ごはん食べて、
次なる場所へと時を刻み始めよう!

長谷寺3-1
本堂からは五重塔も見える
長谷寺3-2
帰りもまた長い階段